森とつくる いっしょにつくる
アトリエフルカワ一級建築士事務所

小さい大仏

7 レスポンス

  1. Chichiko Papa より:

    この大仏を鋳造したのは、神田鍛治町または鍋町界隈の町場に住んでいた多川主膳という鋳物師だといわれていますけど、安永年間に入ると町人が武家の専門職へ、気軽に注文を出せるようになっていたんですね。
    お隣りの下谷にも、武家の専門技術者(刀鍛冶や鎧具足師など)が多く住んでいましたが、平和な世の中のせいで、武家からの注文よりも町人からの注文が多く、それでかろうじて飢えをしのいでいたようです。特に刀の注文は、町人からのものが8割を超えていた・・・という記録がみえますね。

  2. Chinchiko Papa より:

    刀=武士という規定は、時代劇の悪影響のひとつでしょうか。長さ(刃長)1尺9分9厘の2尺に満たない刀(つまり、いわゆる脇指ですね)であれば、時代によって多少の差はあるものの、町人は誰でも指して歩けましたし、それ以上の長さの大刀でも、外へ持ち出さなければ誰でも所持できました。「所有して鑑賞する」ことと「指して歩く」ことは、まったく違うテーマなんですね。秀吉の「刀狩り」は有名ですが、家康は反対に、功労のあった町人に大刀をばら撒いてますから、丸腰の町人ばかりが登場する時代劇と、実際の町中はかなり風俗がちがっていたんじゃないかと。
    そうそう、芝居のお好きなfuRuさんですので、町中が舞台の芝居でも、そこかしこに刀が登場するのをご存じだと思います。「吉原百人斬」なんて、町人が「村正」をふりまわした実話をもとにしてますもんね。あと、江戸後期になると旅行・物見遊山の大ブームが起きますから、道中指しという町人の実質的な需要も出てきて、ますます町人の間に刀が浸透していきます。剣術道場へ通う町人が大勢いたのも、後期に入ってからですね。

  3. fuRu より:

    町人が街中で刀を抜くという事があったんでしょうかね。
    お侍さんでも刀はそう簡単には抜けなかったと思いますが、どうでしょう。
    わき差しは身だしなみの一つだったとか?
    芝居という事で言えば
    「伊勢音頭」で貢が、何人も人を切りますが
    町人さんの貢が、どうしてそんなに刀さばきがうまいのか不思議に思っていました。
    Chinchiko Papaさんの解説で謎氷解です。

  4. Chichiko Papa より:

    抜いたら、即「お縄」でした。(笑) これは武家も同じで、小伝馬町の「あがり牢」へ
    すぐにもぶち込まれますから、腹が立っても刀が抜けないよう、鍔に2つの穴を空け
    て、しとどめ(下げ緒のある突起)との間を針金で結んでいたケースが多いですね。
    いまでも、江戸期の鍔には2つ穴の作品をよく見かけます。
    町人が刀を持つのも、「かっこよさ」のひとつだったんでしょうね。それに影響されて、
    武士の刀も年々派手になりましたから、幕府は登城する武家の刀のデザインまで、
    何度も規定してたりします。柄が「青糸」または「黒糸」で、「黒呂塗鞘拵」(くろろぬり
    ざやこしらえ)というデザイン以外の刀を指してると、千代田城へ入れてもらえなかっ
    たんですよね。

  5. och より:

    鎌ヶ谷大仏で夏頃から現場が始まる住宅があります。
    なので、この大仏さんの前を何度も通っています。
    はじめてこの街に行ったとき、
    もっと大きな大仏さんだと思っていたので
    見過ごしてしまいました!
    fuRuさんもこの街で現場があるのですか?

  6. fuRu より:

    落合さん なんと!
    ほぼ同時期ですね。
    こちらは、駅から歩いて10分弱です。
    大仏さんの前を通りますから、方角も近い!
    落合さんもぜひ大仏づくしを探索してみてください。

  7. 鎌ヶ谷大仏

    昨日は千葉・鎌ヶ谷大仏の家の地鎮祭、
    秋晴れのとてもいい天気でした。
    敷地のすぐ近くには
    鎌ヶ谷大仏と呼ばれる大仏さまが鎮座しています。
    でも、東大…