高橋延清 著 世界文化社-ISBN4-418-99529
「どろ亀さん」こと高橋延清さんの本を初めて読んだ。
過去のNHKスペシャルなどを日曜日の夜中に再放送している。
1985年6月9日に放映された「倉本聰 森と老人」を先日やっていた。
森林と共生する家づくりは僕の理想である。
でも、森林と共生するというのは木の家を造るという事だけではない。
木の家を造る事によって森林が生き生きとするように木を使いたいと思っている。
この理想と現実のギャップは小さくない。
でも、ここは現実をしっかり見据えて一歩一歩進めて行くしかない。
・森林をいかす家づくり-1
・森林をいかす家づくり-2
高橋さんは「学士院エジンバラ公賞」を受賞したときに
自分の仕事は自分が生きているうちには評価されないもの、
100年後に評価されるものだと思っていたからびっくりした、
ということを書いておられた。
森林の生態系のバランスをとりつつ、人間の生活に役立つような木材の生産を考える。
まさに僕が家づくりとともに考える理想的な林業のあり方が
高橋さんの仕事には詰まっている。
それにしても、先のNHKの再放送を見るまで僕は高橋延清さんという名前を知らなかったのだから
モグリと言われてもしかたがない。
僕の中で林業の先生は四手井綱英さんだった。もちろんお会いした事もなく著書を読ませていただいたという意味での先生ではあるが、こちらも森の巨人といえる方だ。
お二人の本を読むと、森を愛する心は同じだと思った。方やアカデミックな活躍をされ、方や北海道の演習林に骨を埋めようとしていたほどの現場の人である。しかし、その対極的な姿は森を愛するという点で共存しえるものだと思った。
さて、この本を読んで高橋さんの活動のいくつかを知った。
「緑維新」(グリーンルネッサンス)の決起--1987年
「緑維新京都宣言」
各種メディアで取り上げられたこれらの活動は大きな反響を呼び
多くの方の共感と賛同を得たようだ。
「ようだ」と書いたのは、今現在 高橋さんのこの活動を伝えるものがあまりにも少ないからだ。
Googleで検索しても一件しかヒットしない。
「緑の列島ネットワーク」というのがある。
近くの山の木で家を作る運動を各智で展開している人たちの集まりだ。
現在僕が参加している「森林をいかす家づくりの会」はこの集まりにまだ参加していないが
近い将来、参加させていただきたいと考えている。
しかし、この集まりも最初の呼びかけがあったときには
ずいぶんとたくさんのメディアに取り上げられ世間の評判を得ていたのだが
今では少々ひっそりとしている。
日本各地でのそれぞれの運動をそれぞれのグループが、着々と実行されているのに、
それは、すでに表面には出てきにくくなっている。
つくづく、メディアの風というのはとてつもなく冷たいものだと思う。
いやいや、メディアが冷たいのではなくて、メディアに躍らされる「人々」が「冷たい」のだけれど。
もともと、近くの山の木で家を作る運動というのは草の根的なものであって
マスメディアで騒ぎ立てるようなものではない。
また、マスコミの騒動に一時しのぎで便乗してしまう人々は
草の根的な運動の対極にいる人たちだろう。
そういうひとたちに近くの山の木で家を作るという活動自体が理解されているとは思えない。
「日本人イラク人質問題」の時も
先日の「拉致被害者家族の会への暴言」も
メディアに躍らされたとしか思えない、多くの人たちの人たちのつまらないざれ言に過ぎない。
そのざれ言で多くの人が傷つけられる姿にはいたたまれないものがある。
言葉というものには力がある。
それは時には無邪気に人を傷つけ
時には迷えるものの心の支えになってくれる。
どろ亀さんの本にはいくつかの詩があった。
それは、詩というにはあまりにもぼくとつとしていて
でもそれらの言葉には しっかり噛んで飲み込むべき味わいがあった。
言葉の本来の力をそれらは持っていた。
それは高橋延清さんが森と対峙して交わり
そのなかから すーっと 出てきた言葉だったからではないだろうか。
僕らには今、大地に根差した言葉を失っているのではないか。
僕らには今、草の根的な活動を通して自分の足元をしっかり見つめて
そのなかから すーっと 出てきた言葉で交わすコミュニケーションが必要なのではないか。
そういう言葉が求められているのではないか。
どろ亀さんの言葉が だから こういう時代だから もっと読まれて欲しいと思う。
どろ亀さんの言葉を噛みしめながらそんなことを考えた。
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