今日の「新日曜美術館」は建築家の石山修武さんが取り上げられていました。
世田谷美術館で開催中の展覧会と関連した放映でした。
でも、こんな放送があるなんて展覧会会場での告知を見るまで知りませんでした。
今日は、午後から世田谷美術館に行ってきたのでした。
展示内容のパワフルさは
他の建築家を寄せ付けないものがあります。
数多く展示されていたドローイングも
力強い説得力を感じました。冴えている、とさえ感じました。
それにしても、石山修武という建築家は
私が学生の頃からその核となる部分がぶれていませんね。
私が学生の頃の石山修武といえば
川合健二へのオマージュ、幻庵から
伊豆の長八美術館と、ものをつくるというスタンスを根源的に問う建築家でありました。
「秋葉原感覚で家を考える」という著書はそれを象徴する存在。
○「「秋葉原」感覚で住宅を考える」
ものをつくるという根源的な行為が
高度資本主義社会でどのように翻弄されているのかを真摯に問うた本です。
石山はそこからさらにすすんでいます。
どんどん自分のいる位置を進めています。
でも、方向性にブレがない、のです。
彼のデザインは
個人的にはどちらかといえば好きな方ではありませんが
建築のあり方を問う姿勢は
学生の頃から影響されっぱなし、なんですね。
今回の展覧会ではそれがいっそうはっきりしました。
新日曜美術館では、もっと生の姿の石山修武にふれることができました。
でも、年取りましたね。
<蛇足>
赤塚不二夫さんがなくなりました。
朝からテレビ番組は赤塚さんの特集で埋め尽くされていました。
そのなかで過去の映像が流されるのですが
赤塚さんはデビュー当時 アメリカのスラップスティックコメディを日本でやりたかったのだと言っていました。
もちろん、本家アメリカでは舞台であり映画であったのですが、いち漫画家が舞台や映画を作れるはずもありません。そこで、知恵を絞り漫画という表現でこれを成し遂げたわけです。
そして、赤塚流ギャグマンガという前任未踏の世界を築くことになるのですが
こんなことをその当時考えていた漫画家は他にはなかったのです。
漫画とはこういうものという思いこみが一切ない自由な精神があったからこそ漫画の可能性を赤塚不二夫は切り開くことができたのだと、彼の言葉から感じることができました。
私も建築設計者として、建築はこういうものというくくりを知らないうちに設けているかもしれません。石山修武の仕事から、そういう思いこみを解体するパワーをもらっているような気がします。
石山修武は建築界の赤塚不二夫かもしれません。
幻庵はどうしても赤塚不二夫のキャラクター「べし」に見えてしまうのだ。
日曜美術館で「理屈は生活に負ける…」と苦笑していたのが
ヒューマンで好かった。
iGaさま
やっぱり・・・そうですよね。
建築に笑いを持ち込んだのは石山修武でしたね。
nt-lab さま
わたしもそこで「ニヤリ」としてしまいましたです。σ(^_^;)