「あたり前の家」ネットワークというのがあって
昨日はその総会とシンポジウムに参加してきました。
シンポジウムのなかのプログラムに
堀啓二さんの「名作に見る小さな家の魅力」という講演会がありました。
江戸時代の長屋から小さな家の系譜をたどってくださったのですが
その中でも清家清さんの自邸が目を引きました。
もちろん、学生時代から清家清さんの自邸は作品集などで穴があくほど見てきましたが、今回は他の小さな家と併置して並べて見ることができて、他との違いが際だった感じがしました。
まさに、清家清さん再発見です。
何が他の小さな家と違うのかと言われれば、自由がある、とでも言えば良いでしょうか。他の小さな家がその家だけで完結するような指向性を持っているのに対して清家清の自邸は自由に外につながってゆく感じがする。
たとえば、外観のデザインということからいうと、増沢洵さんの最小限住宅も合理的なかたちと言いながら同じものが並んで立つと奇妙な風景が出来上がる。これはやはり、デザインに恣意的な嗜好性が含まれているからだと思うのです。もちろん、恣意的な嗜好性こそがデザインの個性であり作家性ということになるのですが、一方、清家清さんの自邸は同じものが並んでいても奇妙な風景にならないなあ、ということなんですね。さらには、建物の構造もエクステンションしてゆくイメージがあります。リビングと外部のつながりも実に自然で内外のヒエラルキーがない。ですから、清家清邸のデザインは外にのびてゆくといいますか、一個で完結しなくてはならないという脅迫的なところがないと言いますか、そういう部分を持っていると思ったわけです。
数多くの写真で数多くの小さな家が紹介され、それを通してみた時に、そんなことをふと感じたのでした。そして、これからは、恣意的な嗜好性を排除した清家清さんのようなスマートなデザインが大切な時代になるのだと強く感じました。
私はドアがあまり好きではなくてあちこちの部屋のドアをはずしています。
カーテンなど吊していますが、トイレもドアはいらないくらいです。
最近蛍が見られる私の家に対するイメージがまた変わりました。
家って想うだけでとってもわくわくするものですよね。
reirei さま
清家清さんの自邸のディティールにまで突っ込んだコメント、ありがとうございます。
住宅というのは人の生きるすべてが入っている。いわゆる建築の中でもその原点に位置するもの。だから、多くの建築家は住宅にこだわり続けてきました。それが住宅の魅力ですね。我々専門に関わっている者を超えてreirei さんのように関心を持たれる方がいるというのもわかるくらいの魅力あふれるものだと思います。
4年前に 私の家から50年 という清家清の展覧会があって行ったのですが、感じいってしまったというか、
それ以来すっかりファンになってしまいました。図録をひっぱり出して眺めてますが、やっぱりいいですね。
自由がある、という表現がまさにぴったりですね。
もきょ さま
先日は「ちっちゃな家」展においでいただきましてありがとうございました。
さて、そうですか、もきょさんも清家清、お好きでしたか。
それ、ちょっとわかりますね。
LoftCubeお好きな方ですからね。通じるものがあると思いますね。