建築家の丸山純夫さんと先日お話しした時のことです。
丸山さんは建築家の大野勝彦さんのところにお邪魔してきたばかりということで、大野さんの言葉を僕らに伝えてくださいました。
「建築家は豆腐を作れないのか」
大野さんはみなさんご存知の通り「セキスイハイムM1」の開発者です。彼の提唱した「無目的な箱」という概念は、現在、再評価されつつあります。いやいや、再評価というよりも、この概念にやっと時代が追いついたというところでしょうか。
それはともかく、大野さんの言うのは
豆腐は買ってきて冷奴にもなればお味噌汁にも入るし、焼いてステーキにもできる。あるいは、あげれば厚揚げや油揚げになる。豆腐は目的に応じて様々に姿を変える便利なものです。豆腐はそういう「便利な素材」という意味なんだそうです。素材というより食材でしょうか。
「様々な料理に使ってもらえるような食材としての建築」
これは建築をプロダクト化することではないですね。
プロダクトは目的がはっきりしているわけで、食材は多目的です。
建築家は利用価値の高い多目的な箱をつくれないのか。
大野さんの言葉はそういう意味に読み取れそうです。
「無目的な箱」から「多目的な箱」。
この違いは言葉尻を超えて大きいような気がします。
多目的というのは、始めからいろいろな目的がある程度明確に想定されているのではないかなぁ、、、
豆腐は豆腐であり、だけど、思いついたなんにでも対応できるという意味で
始めから目的があるのではなく
その時の目的に対応できると言うことなんだよね
M1のReuseは、今回の法規の改正で
やりにくくなってしまった
もったいない
国が、豆腐に味付けしたために、料理の幅が狭くなってしまった
M1住人
昔の日本の家は そんな風でしたね。
一部屋が 時に応じてどのようにでも使われて、フレキシブルでした。
それって、きっと その頃の日本人の考え方や感じ方そのものの反映も有ると思うのです。狭いから・・・・・と言うだけじゃなくて。
人が環境をを生み出したんでですもんね。
もし、建築家の皆さんが そのような空間を作り出して下さったら、今度は逆に その空間が 人の意識を変えて、文化が変わって行って 社会が変わる可能性があると感じます。本当に!
そして、今の社会を見ていると「フレキシビリティ」が と〜っても必要であると思います。色々な意味で。
このテーマは 住む側である私にも、とても興味があります。
「お豆腐のような住宅」が 住まいする者にどのような刺激を与えるのかも面白いですよね。
(!!)。さま
豆腐でカレーを作るというのは、かなりの冒険ですよね。
豆腐料理は、でも多くのトライから新しいものが生まれています。
そういう素材が建築の世界でも提供できないかということだと思うのです。
建築家の恣意的な嗜好性を排除したプリミティブな箱なのかもしれません。
それは目的を持っている。建築になるという目的です。
ところで(!!)。さま。
M1のフレームはどうして流通しなかったんでしょうね。
私は時代が求めていなかったからだと考えています。
今、時代はあのようなフレームを求めていると思うのですがいかがでしょうか。
光代 さま
そうなんです。
昔の日本の家は、確かにそうだったと思うのです。
基本フレームがあって、そこに生活をあてはめていった。
それがいつの間にか、生活が先に行ってしまって
フレームを生活のためにいじることがあたりまえになり
フレームのルールが崩壊。崩壊と同時に大工さんがつくる家づくりのシステムも崩壊。各自がてんでバラバラなことをやり始める。それが現代の「自由」ということです。「自由」は高度資本主義社会の原動力。でも、この「自由」がエネルギーの大量消費を促し地球環境を破壊しようとしていると言ったら言い過ぎでしょうか。
より良い社会を目指して、建築の世界では社会の生産もふまえた新しいルールが今求められているのだと思います。建築の豆腐とはそのような視座の上につくられるべきものなんでしょうね。
私達は フレームのために生きているのではないので、生活が先行するのは良いと思うのです。当たり前というか・・・・。
問題なのはその生活が 何処かで誰かのためにコントロールされていると言う事なのだと思うのです。
ですから、フレームを作る方々が そこを意識して下さるのは 私達生活者にはとても有り難い事です!!
私達、生活者は 建築家の皆さんが「私達は存在し、闘いながら生きている」と言う所をふまえて、新しいルールの元で 新しい提案をして下さるのを 熱い気持ちで待っていると思います!
期待させて頂きますね!!
光代さま
われわれはフレームのために生きているのではありませんが
フレームの中に生きているのです。
フレームの中で生きるということの豊かさと喜びを考えながら
フレームを変えてゆく創造力が求められています。
それが「豆腐」という言葉にこめられていると思っています。
なるほどね。
勇気を持って書いてよかった!
やっと、ほんの少し 今までより建築家の皆さんの言葉に 私の中のリアリティを重ねることができました。
薄い薄い皮が一枚取れたくらいですが、こうして少しずつ 何かがわかっていくことが
私のもの創りにも 大きな良い影響があると思います。
ちょこちょこ こんな拙いコメントをしますが、よろしくお願いします。
難しい問題、、、
あの時点で?
今のフレーム??
最近のリユースにおいて自由な流通は、法規の改正のよってたたれてしまいました。
つまり、ハイムがハイムの材料でその組み合わせによって使う分には、認定通りで問題ないのですが
ハイム以外の使い方では、構造など評価が認定通りでないということでやっかいなことになってしまうのです
残念な話です
社会的にはとても有意義なことなのに、
国はそれをだめだという・・・
安全とはそういうものなのかと悲しくなります
あの時点で、ハイムは、ある知識層のような人たちにしか受け入れられず、その後も結果その路線でしたね
世の中的には、工場で作られたものから、「家」らしいものへ移行していき
そういう消費者を育ててしまったのではないかと思います
消費者の意識では、三角の屋根で、手図福島県田村市大越町栗出なんて今でも思われているのではないでしょうか
家といえば子供が書くような、誰でも家とわかるあの家の形
だからハイムもそうなっていってしまった
今こそ大野さんの発想が生きる時代なのだと思うのですが
住宅 という言葉の持つイメージと、それは、、一般の人にとって離れたものなのだと思います
(!!)。さま
住宅という言葉の持つイメージは大切ですね。
大野さんのあのフレームは、それを乗り越えようとしていたのかもしれませんね。
人間はイメージで生きている生き物だとすれば
住宅のイメージ抜きにフレームを考えることは出来ないでしょうね。
現代における多目的な箱を考える上では
きっと、そこがポイントなんだと思います。