「住宅の射程」
著:磯崎新、藤森照信、安藤忠雄、伊藤豊雄 発行:TOTO出版
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4人の講演を収録した本書の中から磯崎新の「住宅は建築か」と
藤森照信の「分離派問題」が興味深く刺激的でした。
今回は磯崎新の講演について論旨をクリップしておきます。
「建築家になりたいのなら住宅なんか作らない方がいいですよ。」と論じた「小住宅設計ばんざい」。
しかし、そこで論じられたのは、nLDKの呪縛に絡まれた小住宅の数々でした。
小津安二郎の「東京物語」は、日本古来の大家族から戦後の核家族への移行と変容を描いた映画で、核家族化とともにnLDKは生まれ受容されてきました。
しかし、今の日本ではその核家族がさらに変容し始めています。
nLDKは、核家族という体にピタッと合わせた服みたいなものですが、それをもし裁断したらどうなるのか。体が痩せたり太ったりしたらズボンがはけないじゃないか、ということが現実に起こってきたわけです。
磯崎氏は、このnLDKコンセプトが通じなくなった今、新たな、それに変わるコンセプトを掲げるのでなければ、それは建築にはなりえないのではないかと言っているのですね。
住宅に真面目に取り組んでいる人たちの中で(中略)「住宅という名前のものをつくっているけれど、これは建築の一部としてやっているんだ」と思っているならば、それでいいと思います。ところが、世間では、どうしたら住みやすくなるのか、どうしたら食寝分離ができるのか、カウンターとキッチンをどう置けば便利になるのか、家内労働力がどれだけ減らせるか、収納がどれだけコンパクトになるか、といった住宅にまつわるいろいろなテーマがありますね。あまり詳しいことは知りませんが、雑誌や本を見れば、住宅はそういうテーマを扱うものだと言うことになっていますが、僕は「これは建築のテーマではない」と常に思いながら見ています。
磯崎氏は「岐阜県営住宅ハイタウン北方」で、妹島和世さんと高橋晶子さんの実施案をみてこう感じます。
(彼女たちは)核家族がきちんと住むということを、実感としてまったくもっていないらしい
そして、北方の団地に住み始めた人たちの調査を分析してこのように続けます。
つまり、プライバシーや家族構成、子供が何人いるのかといった事柄は、住宅とは無関係だという方向に問題がだんだん移ってきている。核家族そのものが解体して個人がバラバラな状態、あるいはアメリカのように同性愛者同士が住んでいるような状態に変わってきている。要するに、子供の影がないということですね。
こうした、家族崩壊の先にあるのは、おたくの世界、新興宗教の世界、ホームレスの世界なのでしょうか?
一つの未来社会を先取りした生活形態を、おたくのような人たちが既に実践しているのかもしれません。
こういう状況の中、我々は何をしたらいいのでしょうか?
例えば、夫婦に子供が三人いて、予算はいくらで土地はこんなかたちをしているから、この条件に合わせて家をつくってくださいと言われたとしても、その夫婦は明後日には離婚するかもしれないし、子供は家出をするかもしれない。それはわからないことですよね。そうした条件を頑張って解いて造った住宅というのは、うんと太ったときに仕立てた洋服みたいなもので、着る人がダイエットしてヒョロヒョロになれば着られないのと似たようなものだと思います。
そこで大切なのが、仮説を立てること。つまりはコンセプトを組み立てること。
そのコンセプト、自分で組み立てたシステムの「持続距離」が大切なのだと磯崎氏はいいます。
パラディオのヴィラが、不平不満を言われながら、その半分でも未だに使い続けられていることを例に挙げています。
磯崎氏は、もし、住宅設計者が自らを「建築家」であると名のるのであれば、現代に生きる我々が住まうための器をつくる、新たな力強いコンセプトを作り出すべきだとしているわけです。
住宅の設計に関わるものとして大変に刺激的な論でした。
藤森照信氏の講演については後日取り上げます。
そういえば中央線の三鷹・吉祥寺間の北側に磯崎氏設計の交差ヴォールトの家が見えますね。
35°42’14.01″N 139°34’22.34″E
誰もなんとも言ってないけれど篠原一男はパラディオを研究したような気がしますね。
そういえば、磯崎新と篠原一男の横浜大桟橋を巡る論争(喧嘩)の決着はどうなったのだろう。
iGaさま
実はこの講演の中にも、磯崎が篠原を怒らせたという下りが出てきます。
ともかく、篠原一男がパラディオを研究していたのではないかというiGaさんのお考えに共感するところ大きいです。