4月29日は森林インストラクター東京会(FIT)の企画で行われた
「日原民俗探訪」に参加してきました。
最初の写真は日原の集落でお邪魔させていただいた原島邸にあったお札です。
どんどん重ねて貼っています。すごい厚みになっていました。
重みで剥がれてくるので針金でお札を押さえてありました。
今回の企画は東日原の集落を訪れ村の古老である山崎信三氏のお話を聞くというものです。
お聞きした話を個人的な興味に添ってクリップしておきます。
日原は白炭を焼いていた。
お茶の焙煎には白炭でなくてはならない。
白炭は高く売れた。
建築用材としての森林資源の活用は旧来は村の家々を作るためだけだった。
材寸の短い雑木の類は、羽目板や約物として出荷していた。
長さは2m程度に切られた短いもの。
山が険しいので、その大きさしか里まで出すことが難しかった。
里までは、鉄砲出しで出した。
氷川まで鉄砲出しで運び、そこからは陸路に上げられて町まで運ばれた。
この辺は、鳩ノ巣まで筏で流した奥多摩川流域とは事情が異なるようだ。
明治17年ごろの東京で大火が続き用材の需要が上がった。
日原の山奥には天然の桧がたくさんあったが
日原の樵にはそれを切り出し里まで運ぶ技術がなかった。
そこで、東京の材木商が日原の奥にある天然の大径木に目をつけて静岡から樵を連れてきて
索道(ワイヤーロープを張って切った木を出す)で大径木を切り出した。
戦後、再び起こった用材の需要で
国からの補助金がたくさん出たこともあって伐採と植林が繰り返され今に至っている。
建築用材を出すことは
本来、日原では生業ではなかったことがわかった。
雑木(ミズキ)を使ったシラハシが特産品としてあった。
戦後は石灰の産地として栄える。