「愉しい非電化」
著:藤村 靖之 出版:洋泉社
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あたりまえのように電気が供給されているこの社会で
ともすれば我々はその「あたりまえ」が
多くの犠牲のもとに実現している、まったく「あたりまえでない」という事を忘れがちです。
発電は現在の技術ではとてもエネルギーロスが大きいのだそうです。
発電の時のロス、送電の時のロスで
発電に使うエネルギーの35%ほどしか家庭のコンセントには届きません。
つい、数十年前までは結構停電もありましたよね。
12年前に行った、シルクロードの街では
電力の供給が安定せず、毎日のように停電になっていましたし
街の人もそれが当然、という顔をしていました。
そう考えると
安定した電気が供給されている事が驚くべき事だと思わずにはいられません。
そして、その安定が3分の2の無駄によってなりたっているのでは、と思うのです。
ここのところ、私のブログのある記事にアクセスが集中しています。
○「原発はなぜ危険か」-田中三彦
アクセスログをみてみますと
「田中三彦」さんのお名前で検索されてこちらにアクセスされている人が増えています。
田中さんは現在、科学関係の翻訳を本業とされていますが
かつて、日立で原子力発電所の設計に関わっておられました。
先の本は、その時の事を書かれたものです。
内容は、私のつたない記事を参照していただくとして
この本の中で、田中氏は、原発の問題はエネルギー問題であると締めくくっています。
というわけで、この「愉しい非電化」を読みながらいろいろな事を考えています。
この本では、電気というエネルギーがいかにロスが大きいかを分かりやすく紹介しながら
電気がなくてもこのくらいの事は愉しく出来るというアイデアを紹介してくれています。
原発は危ない、電気は使うな、といわれても
これほどの便利さを享受している我々にとっては、地に足のついていないアジテーションにしか聞こえないでしょう。
それよりも、電気がなくてもこんなアイデアで愉しく暮らせるというこの本のスタンスに共感を覚えます。
阪神淡路の被害に会った人から聞いた話では
電気が通じた時が一番安心したということです。
水やガスよりも何倍も早く復旧出来たということは電気というエネルギーの扱いやすさからくるものでしょう。
そういう電気を否定してしまうのはばかげた事です。
ただ、我々が考えなくてはならないのは
エネルギーをバランスよく使うということでしょう。
そして、自分が使っているエネルギーがどういういきさつで供給されているのかということに
もっともっと自覚する事が大切な事なんだと思います。
刈羽の原発が、想像を超えた惨事にならなかった事に、心から安心するとともに
明日のエネルギーについて、考える事の多い最近です。
同感です、のちほどTBさせてください。
http://patinalife.exblog.jp/5346305/
cenさま
cenさんの書かれたこの記事は実は存じていて
こちらからTBさせていただこうと思ったのですが失敗してしまいました。
再挑戦してみますね。
オルタナ・ライフという考え方は私も大賛成です。