「苔のむすまで」
著:杉本博司 出版:新潮社
→amazon
杉本博司さんの名前を知ったのは
aki's STOCKTAKINGの「杉本博司展をまだ見ていないけど」でだった。
2005年11月の記事だから、ずいぶんと前になる。
結局、六本木ヒルズで行われていた展覧会には行けなかったけれど
この「苔のむすまで」はamazonから届いた。
それから毎日、この本の表紙を眺めていたのだけれども、
どうしても読む気が起きなかった。
本というのは、必ず、向こうからやってくる、そんな時間(タイミング)の中にある。
それが、どうして、この本を今頃手にしているのか
自分でもよくわからないのだが、なぜか手にして読んだ。
本を読んでいる途中で、尺八の竹本先生が書かれた文章を読む機会があり
そこで、日本の良さを伝えてゆきたいというメッセージを読んで
僕は軽いめまいを覚える。
偶然に、別々のルートから同じメッセージがやってくる。
その恐ろしいくらいの偶然性に、大いに驚きながら、この本を読み終えた。
自分が日本人であることを、僕はどのように意識しているのか。
日曜日(8月13日)のNHKスペシャルでは日中戦争のことが取り上げられていた。
○日中戦争〜なぜ戦争は拡大したのか〜
そして、南京で起こった惨劇の生き証人の生々しい言葉もそこにはあった。
僕は日本人として、自分たちの先輩が辿ってきた歴史について
ちゃんと知っておく必要がある。知らされるべきであると主張する義務がある。
ある時から、自分たちが日本人であることをごまかしながら歴史を描写しようとしてきたのかもしれない。
しかし、自分が日本人であると言うことは変えることの出来ない事実であるし
それは、丸ごと受け取る必要のあることだ。
日本人こそが日本のことを一番わかっていない。
日本にいないということによって、日本がより見えてくる。
若冲のプライスコレクションが生まれたのも
日本の外からの方が、日本のことがよりよく見えていたということだ。
日本人は日本の何を見ていたのか?
そして、僕は
日本的な美について
大いなるあこがれをもって、眺めていた日々
そうですね、高校生くらいがピークだったかもしれませんが、を思い出しながら
「苔のむすまで」を読んだ。
その時、
僕の中に、
あの恋いこがれるような甘酸っぱい気持ちが蘇ってきた。
僕はいったい何を書こうとしているのか。
この本は杉本の想像力の縁を泳いでいる本だ。
史実もあれば空想もある。そして、その狭間も。
ようは、曖昧な想像の世界の産物であるということ。
そういう意味では、masaさんのご指摘にもあるように、中沢新一の「アースダイバー」に通ずるものがある。
しかし、杉本博司は確信している。
その曖昧さこそが、どうも日本的な空気をこの本の中から漂わせている一因ではないかと。
行間を目で追う僕はそんなふうに感じる。
一読しただけでは、霧のかかったような文章も多いが
時間をおいて、何度も読み返してみようと思った。
霧の向こうに何かがあるような、そんな確かな感じがそこにはあったから。
その確かな感じこそは、杉本の確信から発せられるものに違いない。
その確信は凛として、そこにある。
シャッターを押す、それはつまりは、時間をどう考えるか、
人にとっての時間をどう考えるかという問いかけそのものであるから。
杉本はシャッターを押すたびに、そのような禅問答の問いかけを自らに放っているのだと思う。
その問いかけこそが、杉本の確信を支えている。
その問いかけにこそ、日本的なるものを受け入れるための核心がひそんでるのだ。
○杉本博司展をまだ見ていないけど(aki's STOCKTAKING)
○杉本博司展 をまだ見ていないのに(MyPlace)
○杉本博司 回顧展(Kai-Wai 散策)
<蛇足>
一国の主であろうとなかろうと、戦争の犠牲になった人たちに深々とお辞儀をして慰霊の気持ちを表すことの、どこに非難されるような気持ちがあろうか。気持ちは否定されない。戦争という惨劇の責任者を奉っているわけではないことは、だれの目にも明白なのに。ただ、政治的なレトリックとしては、ずいぶんと強引な文体であると言わざるをえない。